山本こういち

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信じる、ということ

|Date:2021年5月25日 | Category: |

以前、とある街角で、マスクをしていない男女に問い詰められたことがあります。
「あなた、もっと勉強しなさい! コロナなんて政府の陰謀、マスクなんて意味がない!」

何を信じるかは全くの自由で、思想・信条の自由は憲法第19条でも保証された基本的な国民の権利です。
でも、自らの信じる物事を、信じていない人に信じてもらおう、つまり人の心を変えようとするときには、それが相手にとっても客観的に「信じるに足るもの」であることをしっかり証明しなくてはならないと思います。
それが科学的に証明できることなのか。相手の不信を消し去る説得力があるのか。
そうでなければ相手の心に言葉が届くことはないと、私は思います。

古代ローマの英傑ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)は次のように語ったと伝えられています。
「たいてい人間は(自分が)欲することを喜んで信ずる」
人間は自からの求めるもの、こうあってほしいと思うことを信じてしまう傾向があるという言葉です。

東日本大震災のとき、原発事故によりまき散らされた放射能への恐怖により、多くのデマが生まれ、飛び交いました。
福島第一原発は核爆発を起こした。この程度の被ばく量なら問題ないとメディアで話している〇〇医師は政府の手先で嘘ばかりついている。東北から来るものはすべて危ないから避けなくてはならない……
そうした情報を拡散した方々のほとんどは「自分や家族、そして社会の人々の命を守りたい」という正義感に駆られてのことで、自分の行いは今でも善行だったと確信していることでしょう。
広まったデマによって哀しんだり苦しんだり、迷惑をこうむった方がたくさんいたとしても、です。

インターネットの普及とSNS等ネットメディアの発達により、かつてマスメディアが独占していた大衆への情報発信の参入障壁は取り払われ、誰もが世界中に(ノーチェックで)情報を拡散できる世の中になりました。東日本大震災のころにはその傾向が絶対的なものとなり、先ほど触れたデマの多くもネット経由で人々に広まりました。

個々人それぞれが自分の見たい、聞きたい、知りたい情報のみを手に入れ、それ以外のものには全く興味を示さない傾向が強まれば「社会的常識」という存在は消滅していくでしょう。
多様化した社会、といえば聞こえはいいですが、「個々人の自由」を振りかざす人々が増え、社会に属する誰もが守るべきルールやマナーさえ否定されてしまえば、人間社会そのものが存在意義を問われることになりやしないかと心配になってきます。

話がそれました。

私はかつてマスメディアの端くれにいた者ですが、新人のころは先輩から「社会に情報を発信するという重みを自覚しろ」と口ずっぱく指導されました。あやふやな情報、間違った情報、嘘の情報を発信するべからず。人様に伝える情報は、必ず複数の情報源から裏付けを取らなくてはならない。思い込みは真実を見極める目を曇らせるので取材時には先入観を捨てよ……

しかし、いまネットメディアにあふれる情報は、しっかりとした裏打ちのある情報なのか、薄っぺらいデマ情報なのか、見た目では区別がつきにくい状況となっています。
せめて自分が信じるものは、デマや嘘でなく、間違いのない「客観的事実」でありたいものです。



最後に。
私のだいじな仕事仲間で、尊敬する同僚がいます。その同僚の、大切なご家族が新型コロナウイルス感染症でこの世を去ってしまいました。
たいへんな思いのなか、同僚は「新型コロナはただの風邪などではありません」とSNSを通じて冷静に書き綴りました。

私は、この同僚の言葉を信じます。

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