山本こういち

自己紹介

若松の「思い出の味」があふれる幼少時代

ぼくが生まれた若松区の小石地区には、今とちがって子どもがワンサカいて、実家の横にある小石小学校は45人学級でぎゅうぎゅう詰め。僕が5年生のときだったか、新設された赤崎小学校と2つに分けられたほどでした。毎日毎日、暗くなるまで近所の畑を走り回り、菖蒲谷貯水池や小田山のお墓に探検に行ったり……。

これは後で家族に聞いた話ですが、そんな小学生時代のある日、ぼくは実家の庭先にある、もう使っていなかった古井戸のコンクリートのフタの上に立ち、道行く人に向かって「やまもとこういちでーす!」と名前を連呼していたんだそうです。そのころから、政治家というものに興味があったのかもしれません。

父の山本陽一郎、母の幸子ともに北九州市の正職員でしたので、家庭は貧乏ではなかったはずなのですが、裕福でもなく、外食に行く機会はそうそうありませんでした。給料日やボーナス支給日などに、(いま「ホテルルートイン北九州若松駅東」が建っている場所にあった)丸柏(まるかし)デパート5階大食堂で洋食を食べさせてもらったり、その丸柏の裏手にあった焼肉店「日の出」でお肉を食べるのが、たまのぜいたくだった気がします。

今はもう消えてしまった当時の「味」の思い出は、喫茶店サルーンのシャリシャリしたミルクセーキ、みよし庵のカツ丼、龍のラーメン、来来のギョウザ、分福のレモンパイ、あと商店街じゃないですが栄盛川ふじやのパンダパンなど、枚挙にいとまがありません。若松には本当に名店が多かったんだなあと思います。

でも、今も「おおっ」と思わせるすばらしいお店もまだまだ存在するんです。それはもっともっと皆さんに知らしめていかなくてはと感じています。

音楽に目覚めた中学時代

小学校時代は、アトム模型というお店のショーケースに並んだプラモデルやモデルガンが欲しくてたまらなかったぼくですが、中学校になると興味の中心は音楽へと移りました。特に大好きだったのがシンセサイザーミュージックで、(ぼくらの世代の男性はたいていそうでしょうけれど)YMOにどっぷりハマりこみました。メンバーのソロアルバムや、彼らが参加した他のミュージシャンの作品などを追いかけるうちに聴くジャンルがみるみる広がっていき、音楽鑑賞は生涯の趣味となりました。

また向洋中学校で吹奏楽部に入ったのがきっかけで、クラシック音楽も聴くようになりました。初めて買ったクラシックのレコードはムラヴィンスキー指揮、レニングラード管弦楽団のチャイコフスキー交響曲第4番で、今でも愛聴している演奏です。

レコードはアーケードの金豊堂かサメジマで購入し、バスに揺られつつ家まで抱えて帰って、父が月賦(げっぷ)で買ったパイオニアのオーディオコンポ「A7」を独り占めして聴いていました。お年玉を貯めてキッタカ電機で買った高いレコード針(シュア社のV15タイプIV)で聴いたアルバムは、いま思い出しても本当にいい音だったと感じます。

カセットテープオーディオも全盛期で、大事なレコードはメタルテープにダビング、FMのエアチェックは基本的にノーマル、カセットレーベルはタイプで打ったりFM雑誌の付録を切り抜いたり…… なんて言っても今の若者には理解不能でしょうね。

ぼくのもうひとつの趣味は映画鑑賞です。小学校5年生のときに観た「スター・ウォーズ」に人生最大の衝撃を受けたぼくは、映画好きだった母の影響もあり、暗闇で銀幕に映し出される物語のとりこになりました。若松で鑑賞した映画で思い出深いのは、若松東宝で観た「ゴジラ」作品の数々と、平和キネマで観た「ルパン3世 カリオストロの城」です。

いま、若松区内には映画館が存在しないというのはとても残念。シネコン全盛時代ではありますが、全国には小さな街で頑張っている映画館も少なくないですから、ぜひ何らかの形で若松にもスクリーンで映画の楽しめる場所が復活してほしいと願っています。

読書に励んだ高校時代

高校時代は毎日、バス→若戸渡船→鉄道(汽車、って言ってました)→徒歩というルートで八幡中央高校まで通(かよ)っていました。通学に1時間半近くもかかるものですから、行き帰りでマンガも含めてとにかくたくさんの本を読みました。

若松では火曜日に書店に並ぶ週刊少年ジャンプは「ドラゴンボール」「北斗の拳」「ウィングマン」「コブラ」「ストップ!ひばりくん」などが掲載され、勢いをどんどん増しているころ。その巻末にあった「ジャンプ放送局」という投稿コーナーにハガキを出しまくり、掲載数の順位が全国9位になったこともあります。

いっぽうライバル誌で水曜日発売の週刊少年サンデーにも「うる星やつら」「タッチ」「Gu-Guガンモ」などが連載されていて、マンガ好きにとっては幸福な時期だったものだと思います。その他の曜日にはキオスクで星新一や筒井康隆、赤川次郎などの文庫本を買い、汽車やバスに揺られながら小さな活字を追っていました。

高校の部活では、放送部と、無線やコンピュータを扱う物理部に所属していました。放送部ではしゃべるほうでなく機材操作をしていたのですが、のちに放送業界に進んだ際、取材や番組作りなどにその経験が非常に生きました。放送部の同僚には、いま気鋭のクラシック評論家として活躍する舩木篤也くんがいたんですが、ぼくのこと覚えてくれているかなあ。彼にはクラシックの楽しみ方をたくさん教えてもらいました。

物理部の部室には、個人所有のパソコン(当時は「マイコン」と言う呼び名が主流でしたが)であるシャープのMZ-80Bを持ち込み、放課後は「I/O」という雑誌に掲載されたコンピュータプログラムの長大なリストを根気よくキーボードから打ち込んでいました。当時は自分でプログラム(いまでいうアプリ)を一文字ずつキーボードから打ち込まなくちゃいけなかったんです! たいへんな作業でしたが、かならず入力ミスがあり、多くの場合はうまくプログラムが動かなかったものです。

自分を育ててくれた若松への恩返し

高校を卒業して北九州を離れたぼくは、2017年の春に若松へ戻ってきました。かつての若松に比べて、空気も海もずいぶんキレイになったのはうれしい限りですが、若者の姿が少なく、どことなく静かな街になってしまったのも確かです。

かつてのように賑やかで、まぶしい輝きを放つ若松は、もう望めないのでしょうか? いいえ、そんなことはありませんよね。皆さんといっしょに、ピカピカ輝く、晴れやかな街へと若松が戻っていけるよう、全力を尽くしていきたいと思います。

頑張りましょう!